「レモンの日」とは、詩人高村光太郎の「智恵子抄」におさめられた「レモン哀歌」が由来となっております。

 

病床の奥さんへ手渡すたった一つレモンが、最後の命を燦燦と輝かせる様を詠ったこの詩は翌年発表され大きな反響を呼びます。 

高村光太郎は著名な仏師・高村光雲の長男として東京の台東区に誕生しました。東京美術大学(現在の東京芸術大学)を卒業後はニューヨークやロンドン、パリへと留学し西洋文化と近代的な精神を身に着けて帰国し、日本で活動された詩人であり彫刻家です。

1911年に女流洋画家の長沼智恵子と出会い、三年後の1914年に同棲を始めます。二人は共に支え合い、金銭的に苦しい生活を送るも、充実した創作活動を謳歌していた。しかし1931年、智恵子の実家の破産などから統合失調症の兆しが見え始める。翌年には服毒自殺を図るなど徐々に彼女は追い込まれていきます。1933年に二人は入籍し、療養の為温泉を巡ったが病状は悪くなる一方。1938年の夏ごろから具合が悪化し同年10月5日、長らく冒されていた肺結核により智恵子は亡くなってしまいました。

彼女が亡くなる直前の様子を記したのが「レモン哀歌」です。

レモンを齧ることで、起こる智恵子の変化は現在に生きる私たちにも何処か通ずるものがあるように感じます。


智恵子抄 レモン哀歌

著者:高村 光太郎

 

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉(のど)に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

昭和一四・二


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